平常と混乱
サーシャ、我が愛しのロシア皇帝。寂しかったかい?
疲れたね、こんなに痩せて。ようやく迎えに来ることができた。こんなに遅くなって、悪かった。
美しい碧眼。そして声、透き通る銀髪。
兄さん…本当にアルセニー兄さん…?私の、血縁者。ロシア皇帝の血を受け継ぐ誇り高き血族である我が兄上…。
どうして今まで迎えに来てはくれなかった……。私は、兄さんにはとても言えぬような仕打を、体に流れる血すらも汚れるような侮辱を毎日のように受けてしまった。この身が、日に日に腐食されていくようだった。
その存在を信じていないかのような、見開かれた瞳。
本当に申し訳ありません皇帝陛下。陛下が想像する以上に、ここに浸入するのは非常に困難なことだったのです。この私にとってもそれは変わりません。
その微笑はあなただけのもの。
ロシアは他国に負けぬ最も気高い国だぞ。その皇帝の兄ともあろう気高き貴方に、そのようなことが?
皇帝陛下、その言葉に込めた僅かな哀愁。
はい。出来ぬこともございます。
記憶は蘇り、あなたとの思い出を噛みしめる。肌には艶が戻り、抉れた頬さえ肉を得る。目の下の隈などあったことさえ忘れるほど。
しかし、急に幼くなる弟を、彼は何の躊躇もなく受け入れる。それは、すでに見越された事実かのように。
二人の間に違和感はなかった。あるものはただ、静かな、静かな懺悔と、悔いと、後悔だけ。
嘘だ。兄さん、私が憎いのなら素直にそう言って下さい。私は、私は、貴方を、名誉を、私のせいで…
サーシャ、気を落ち着かせて。今のお前は突然のことに冷静でいられなくなっているだけだ。落ち着いて、私の目を見るんだ。安心していい、私はここに来た。お前のもとにやっとたどり着いたんだよ。
私は、お前が居る所ならば、一歩先が見えない暗闇も、猛獣に囲まれたサバンナでも、喜んで足を踏み入れよう。しかし、この場所は、それらの苦痛を支払うよりも更に過酷なしがらみにどよめいていた。
そのような苦痛、払う必要はない。私が堪えればいいのか?貴方に助けを求めることなどなくこの場で王として生きていけば良かったのか?もう一度だけでも、出会いたいなどと望まなければ良かったのか? …苦痛など。貴方に苦痛など、与えたいわけではない。
違う。サーシャ。聞いてくれ。お前に助けを求めてほしいと願ったのは私だ。サーシャ、苦痛などどうでもいいんだ。いくら痛みを被ってもいい。私に、お前を助けさせてくれ。お前が私を救ってくれた何十分の一かで構わないから。
私が、救った?その眼を傷付け、出世の隔たりとなった私が?
そうさ。お前が私を守っていてくれたということは知っている。今度は私がサーシャを守る番だ。さあ、もうこんな牢獄にいる必要はない。 ロシアに帰ろう。そして、共に暮らそう。
では、もう私は自由の身となるのですか?もう、屈辱に身もだえることもなく、この乞食のような生活から解放されるのですか?
ああ、もちろんだよ。お前に何ひとつ不自由することのない暮らしを約束しよう。サーシャ、もう嘆くことはない私が全てを与えよう。もう、私の元から離れさせはしないよ。
兄さん…。私は初めて、生まれたことに感謝する。極寒の地で凍えながら、汚らわしき下賤共に陵辱されてさえ、生きてきた価値がある。
サーシャ、昔の忌まわしい記憶を思い起こすことはない。
兄さん…。
さあ、言ってごらん。何をしたい?何を食べたい?それともまずゆっくりと休もうか?サーシャ、私に何もかも打ち明けてくれ。お前の望むもの全てが叶うことが私の望みだ。
もう一度、ボルシチを。私の為に作ってくれませんか…?それだけ、それだけでいい。一緒にいたいなどと望まない、愛してほしいなどと望まないから……。
サーシャ君、ああ、やっと目を覚ましましたか。あまり我輩の手を煩わさないでいただきたいものですね。まあ、しかし今回は許してさしあげましょう。余程良い夢でも見ていたんでしょう。今まで見たことのない表情をして眠っていましたよ。
…南の隠者、ここは。私に何を、この薄汚い部屋は、
しかし、残念ながら美しい夢物語など、この悪名高き監獄には存在しません。我輩の檻もまた同様に。
記憶が飛んでしまいましたか?しかし、それもまた一興。あなたといると飽きることはありませんね。
私の顔に触れるな。貴様ごとき、気安く私に近付くことすら罪になるというのに。
頬に肉が戻りつつある。徐徐に薬が抜けてきているようですね。
私を帰せ、私はこのような家畜の住処のような牢獄に居るような人物ではない。お前などに、囚われになるわけがない。私は…
仕方がありませんね、調教の時間です。
何を、離せ。汚らわしい手で私に触れるなと言っている。退け、
少し、おとなしくしていただきましょうか。
さあ、サーシャ君、美しきロシアのカルメン。我輩を楽しませるべく精一杯演技なさい。
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