眠る前に

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 鍵矢崎家では、小さい子が眠る前に絵本を読むという決まりがある。その絵本は、イソップ・グリム・アンデルセンが主流だったが、今夜は日本昔話らしい。誰が今日の担当かは察していただけるだろう。
「昔昔、あるところにおじいさんとおばあさんがおったそうな」
 棒読みで始まる絵本の朗読に、末っ子は文句をつけた。
「さむらいやーだ。れいじとよんいるがいい」
 むすっとした顔で、頬をふくらませる様は見ていてとても愛らしい。しかし、その言葉にサムライはひどく困惑していた。従来、子供の相手など向いていない男であり、こういった場合にどのように機嫌を取るかなどわかるはずもなかった。
 廊下で待機している直に、扉のガラス越しに目で助けを求める。
(どうすればいい)
(しっかりしろ。このままでは懐かれないままロンの幼少期が終わってしまうぞ)
 ロンへの絵本朗読をするメンバーの中に直は含まれていない。この絵本朗読は、普段直にべったりくっついているロンに対して、自分以外の家族にも懐かせるという作戦だったのだ。
 ロンは今年で幼稚園に入園した。とはいえ、まだまだ甘ったれでわがまま盛りの可愛い末っ子を、兄達はめちゃくちゃに甘やかした。直も三人目ということもあり、子育てに余裕が出てきたのか躾をあまり厳しく行わなかった。その結果、ロンはサムライという存在を単なる「自分のお家で暮らしている人。名前はサムライ」という認識しかしていなかったのだ。
 その事実に気づいた時から、二人の兄たちが担当していた絵本朗読はサムライの担当へと変更され、直による"ロンをサムライに懐かせる計画"が始まったのだ。
「なあ、母さん。別に俺がロンに絵本読んだっていいだろ。ロンに絵本読んで一緒に寝たいんだよ」
 直のパジャマに掴まって、レイジが文句を言う。末っ子命のレイジにとって、ロンと一緒に寝る大事な時間を奪われるということは一大事だった。
「いいかレイジ。これは、ロンとサムライ、後々には家族全体に関わる大切な問題だ。お前はヨンイルと一緒に寝ていろ」
「なんで俺がレイジと寝なあかんのや」
「ヨンイルとなんか寝たくねーよ。こんな奴抱いて寝たって、全然気持ちよくねーし」
「ちょっと黙っていろ。ロンがこちらに気づくかもしれないだろう」
「けっ」
「俺はおかんと寝たいんやー」
 三人の言い争いを遠目に見つめていたサムライは、ため息をついてロンに向き直った。
「俺で我慢してくれ。好きな昔話を読んでやろう」
 それは口下手なサムライの精一杯の言葉だったが、ロンにはうまい具合に伝わらなかった。
「昔話やだ。れいじにばとるろあいやる読んでもらう」
「…ばとるろあいやる?何だそれは。ロンはその話が好きなのか?」
 とたんに満面の笑みを浮かべるロン。きゃっきゃと手を動かして、サムライの顔やら体やらを叩く。
「すき。れいじとよんいるたたいたりけったりするー」
「…叩いたり、蹴ったりだと?お前のことをか?」
「れいじはよんいるたたくの。よんいるはれいじけるの」
「よし。わかった。ちょっとここで待っていろ。すぐに戻る」
 右の眉だけつり上げたサムライは、まだ小声で話し合っている三人の元へ向かった。三人の存在がロンにばれないようにそっと戸を開いて自らの大きい体を廊下へ押しやった。
 三人は突然サムライが現れたことに驚き、一瞬ぽかんとした。最初に口を開いたのはやはり一家の権力者、直だった。
「何かあったのか?」
「レイジ、ヨンイル。お前達ロンに何の話を聞かせている。ばとるろあいやるとは一体どのような本なんだ」
 レイジとヨンイルは顔を見合わせて、二人揃って直に背を向けた。しかし、もう遅い。逃げることなど出来ないのだ。
「どういうことだ。ロンには、僕が用意した童話を読み聞かせるように言っておいたはずだが」
 二人の目から直の顔は、黒い陰に覆われて見えなかった。辺りにはぐるぐると濁った霧のようなものが渦巻いていた。実際、その時のレイジとヨンイルにはそれほど直が恐ろしいものに見えていた。
「低俗な小説など読み聞かせていたのか?二人揃って?最近ロンが妙に刀に興味を示すと思ったらそんなことが…」
 二人にはすでに、サムライなど見えていなかった。ただ、直のお仕置きに怯えるだけだった。
「ヨンイル。貴様は一週間漫画禁止だ」
「堪忍してやーーーー。この通り、それだけは」
 床に突っ伏したヨンイルの涙の訴えに、直の表情はぴくりとも動かなかった。反論さえなかった。ヨンイルは、絶望と諦めにハハハッと口だけの笑いを浮かべた。それを直に見ていたレイジは、自分の身に降るお仕置きに恐怖した。
「レイジ。お前は一週間ロンと寝るのは禁止だ」
「え、え、マジで。俺、昨日もその前の日だって寝てないんだぜ?せめて三日、いや二日。一週間?ありえねーよ!!」


 二人の絶叫がこだました頃、ロンはすやすやと穏やかな眠りについていた。

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